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Column
真ちょえん的日記
レンズがほしいなぁ。 2010年01月30日(土) 誰か私に、
オリンパス Zuiko Degital の 70-300mm望遠レンズを与えてはくれないだろうか。 まさかサッカー撮りすることになるとは思わなかったから 望遠不足は最近死活問題だ。。。(汗)(泣) http://olympus-imaging.jp/product/dslr/lens/70-300_40-56/ ついでにメガネのレンズも替えないと。 右目が合ってなくって。 月の裏側。 2010年01月03日(日) お正月早々、読み切りました。
恩田陸「月の裏側(The Dark Side of The Moon)」。 (この日記にはストーリーの核心が含まれます) うら表紙にあるあらすじによると、 九州の水郷都市・箭納倉。ここで三件の失踪事件が相次いだ。消えたのはいずれも掘割に面した日本家屋に住む老女だったが、不思議なことに、じきにひょっこり戻ってきたのだ、記憶を喪失したまま。まさか宇宙人による誘拐(アブダクション)か、新興宗教による洗脳か、それとも? 事件に興味を持った元大学教授・協一郎らは<人間もどき>の存在に気づく……。 ◆ 後味が悪い。この作品の率直な感想だ。もちろん作品を愚弄しているわけではない。あまりにも壮大な命題が読者に委ねられたまま、半ば放置された状態でぷつりと切れ終わる。脳内にぐるぐるとまわったままの命題に自分なりの答えを見いだす作業を、読み終えた後もしなければならない。 舞台は、作品中では箭納倉となっているが、紛れもなく福岡県の柳川。幾多の堀が張り巡らされたこの小都市で、相次いで堀に面した家に住む老人が失踪する事件が起こる。老人らは何日かすると元の【よう】に戻ってくる。疾走している間の記憶はなく、まるで数日間が抜け落ちたまま前後の日が繋がっているかのように。この事件の謎を突き止めるため、元大学教授の三隅協一郎は、レコード会社プロデューサーの塚崎多聞や、協一郎の娘で多聞にかつて思いを寄せていた藍子を呼び寄せ、新聞記者の高安則久とともに謎に挑んでいく。 協一郎らが突き止めた事実。戻ってきた人が良く似た【別物】だということ。誰が見ても、そして当の本人さえも【私】だと認識しているのに彼らの正体は精巧にできたコピー。意識のレベルでは違っているのに、【無意識】だけはみな同じコピー。誰が、何のために? ある月夜、唐突にまちから人が消える。どうやら何者かによって「堀割」に引きずり込まれたらしい。堀割の片隅で、意識を、人体をコピーされているに違いない。 夜を映し出す堀割の水。協一郎らは気づく。堀割の水。生命を生み、育んできた水を介して、人は<ひとつ>になろとしているのではないか。無意識の中で、人は繋がろうとしているのではないか。 謎を追い続けるうちに決定的な真理に突き当たり、戸惑う。平然と過ごしていた自分たち自身が、実はすでにコピーされたもので、今までそれに気づかなかっただけかもしれない。自分たちは既にコピーされてしまった人間だから、堀割に引き込まれなかっただけなのかもしれない。 藍子が言う。「あたしがあたしでないというのはどういうことなのだろう。あたしは何も変わらない」「なのにもうあたしではないのだろうか? あたしとはなんだろう。あたしとは、誰だったんだろう」 ◆ 私とは何者なのか。その根源的な問いを、ファンタジーの領域で描こうとした小説。 文庫本の250ページほどの内容だが、描き切れていないようにも感じる。何しろストーリーのキーマンは多聞だが、前半の重厚な作りに比べれて後半は場面転換が速く、佳境を藍子で迎えてしまう。 後味が悪いのだ。置いてけぼりというか、突き放されてしまったような感じがする。私が誰であるかという問いに対する答えや、ストーリーが九州の柳川であった理由を、読者は考えなければいけない。すとんとは落ちてくれない。あっと驚く結末を用意していくれている恩田陸の作品群からすれば、「らしくない」、といえば良いのだろうか。 ◆ ファンタジーでどこまで「自分」というものの「存在」を問えるか、ということに関して言えば、この作品は十分に読む価値はある。問うことはできている。読者には作品の持つテーゼを常に頭に置いて読むことを勧めたい。★★★☆☆
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